孤高の人、入試直前期の心境
入試直前期の心境
少年時代の私は、日が暮れるまで野原を駆け回って遊んでいました。自分の世界を膨らませて、小さな冒険を楽しんでいました。家に帰ると本や図鑑を夢中になって読みました。昆虫や魚を飼っていたので、生き物の世話もしました。1日はたっぷりあって、心ゆくまでやりたいことだけをしていました。
ところが、受験生になると、「やるべきこと」「しなければならないこと」が山のように出てきました。時間に対する感覚は大きく変わり、途方もなく貴重なものとして感じられるようになりました。
入試直前期は、一層時間が貴いものに思えました。限られた時間の中で過去問の演習を重ねて、志望校の出題傾向に少しずつ照準を合わせていきます。「皆に等しく与えられる24時間。その24時間をいかに効率よく使うか」を考えました。入試は私にとって、時間の概念を大きく変えた出来事でした。
灘高と東大を受験するときは独力で挑みました。私にとって、「独学が最も効率が良い」と思ったからです。体調を整えるため、起床後に体操、休日の昼と夕方に散歩、勉強の合間には軽い筋力トレーニングを行なって、血流循環を良くしました。
日々の生活は自作の時間割によって分単位で管理し、1日の全ての時間にやるべきことを決めました。分刻みのスケジュールだと息が詰まりそうに思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。自分の基準で行動するため、常に万全のコンディションを保てました。計画のおかげで24時間の中でできることが増え、充実した気分になりました。
孤高の人
大正から昭和にかけて活躍した登山家に、加藤文太郎(1905 – 1936)という人物がいます。その当時は、困難を伴う登山には案内人を雇ったり、グループを組んだりして立ち向かうのが常識とされていました。ところが、彼は単独行というスタイルで、自分ひとりの力で数々の登攀記録を残しました。
新田次郎が書いた『孤高の人』には、次のように描写されています。「彼は不世出の登山家だった。人間的にも、彼は他の追随を許さぬほど立派な男であった。彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった。」
加藤文太郎は明治38年(1905年)に生まれ、14歳で神戸の三菱内燃機製作所(現三菱重工)に入社しました。18歳の頃に始めた町歩きが、登山を始めるきっかけとなりました。休日ごとに国道や県道をリレー式に歩いて脚力と読図力を養うという独自のトレーニング法を編み出しました。山岳地帯の未踏ルートを歩くことを心がけ、地図上を赤線(歩いた軌跡)で埋めることにこだわっていました。夜を徹して1日に100km以上歩き続けることもあり、「生まれながらの単独登山者」と称されました。
装備を自分で手作りし食料を工夫して周到な準備を行ない、一歩一歩確実に足場を踏み固めて進み、厳冬期の北アルプス横断や槍ヶ岳単独登頂などを行いました。また単独行はグループ登山と異なり、人に頼ることはありません。行動の全ての責任は自分自身にあります。判断に迷わず次々と目標を達成したことが、彼の成長につながったのだと思います。
六甲全山縦走
加藤文太郎がトレーニングに用いたコースの一つに「六甲全山縦走路」があります。須磨から宝塚まで56kmあるコースは、毎年縦走大会が開かれるほど、多くの登山愛好家に親しまれています。
秋が深まったある日、私は彼の足跡をたどろうと六甲全山縦走を行いました。午前零時に宝塚を出発。最初は月明かりで歩けましたが、山深くなるとライトを灯しました。木々の合間に阪神地域の夜景を眺めながら、夜の森を進みます。六甲最高峰(931m)には午前3時に到着。山頂周辺からは舗装路と並走して西へ進みます。掬星台で夜明けを迎えました。目を見張るほどの夜景は陽光を受けて静かに消えていき、神戸の町並みが霞の中に浮かび上がります。
高取山(328m)に到着したのは、太陽が南中した頃でした。ここは文太郎が日常的に鍛錬し、最も愛した場所の一つです。大阪湾を囲む大阪平野と淡路島が一望できます。「文太郎はいつもここからこの景色を眺めていたのだな」と、感慨にひたりました。文太郎はこの場所に来るたびに、厳冬期の北アルプス縦走やヒマラヤ遠征の構想を練っていたのです。
このあと、露岩が美しい須磨アルプス(312m)を越え、町を通り抜けて、終点の須磨浦公園駅に到着した頃には、日が傾き、長い影が伸びていました。
文太郎は31歳の若さで吹雪の槍ヶ岳に消えました。しかし、その生き様は今でも語り継がれ、多くの人に影響を与えています。勉強も登山と同じです。意欲を高く持ち、実直にトレーニングを続けていると、いつしか高峰にたどり着けます。
本記事は、毎月発行している「学心だより」の抜粋文です。期間限定で公開いたします。